3S政策(Sports(スポーツ)、Screen(スクリーン)Sex(セックス))は、戦後、日本人の愚民化政策の為にGHQによって行われたというのが、陰謀論界隈だけでなく、少しこの手の話に詳しい方の認識であると思う。
だが、良く調べてみると、戦前から既に日本に入ってきており、日本弱体化の為の世論工作として利用されていたようだ。
3S政策の意味、メリット、デメリット
3Sの意味
- Sports(スポーツ)スポーツイベントや競技を通じて、国民の注目を集め、団結感や興奮を生み出す事。
- Screen(スクリーン): 映画やテレビ、特に娯楽的な映像コンテンツを通じて、視覚的なエンターテインメントを提供する事。
- Sex(セックス): 性的な要素を含むメディアや文化的表現を通じて、性的関心や娯楽を増幅する事。
メリット
国民の不満や関心を政治や経済の問題から逸らし、代わりにスポーツや娯楽に夢中にさせる事により、安定した社会秩序を維持する事が出来る。
デメリット
国民を「愚民化」させる試みとして批判される事がある。
重要な社会問題や政治的課題から意図的に注意を逸らし、国民の思考力や批判精神を鈍化させる可能性がある。
また、歴史、伝統文化等に興味や関心が薄れていくのも否めない。
3S政策はいつから始まったのか?
アメリカの地底政府
3S政策そのものが、明確な政府の公式政策として存在していた訳では無い為、具体的にどの時期に3S政策が行われていたかについては不明である。
しかし、おおよその時期を知る事は出来る。
皆さんは、「アメリカの地底政府」という言葉を聞いた事があるだろうか?昭和16年度の報知新聞に興味深い内容の記事が掲載されている。
(5) 仮面剥れた米国映画 恋愛や文化にも破壊の触角(一部抜粋)
天を衝くマンハッタン、炬火を掲げる自由の女神、不夜城タイムス・スクエア、映画の都ハリウッド、そしてGメン、カウボーイ、ギャング—と、映画といえば反射的にこれ等一連のアメリカ影像が脳裏に浮び上ってくるほどアメリカ映画が我が国民殊に若き青年子女の上に及ぼした影響はかって著しいものがあった、事変以来は為替管理の強化でアメリカ映画の輸入も月々数える程に制限されてしまったのでその影響もほとんど目立たなくなってしまったが、一時は若い女性のモードが全くアメリカ映画によって支配され、和製デイトリッヒ、和製ガルボ、和製ヘップバーンをきどった女性が百鬼夜行のように銀座、新宿街頭を闊歩し、日本観光に来たアメリカ人がびっくりしてツーリスト・ビューローに注意の手紙を置いて行くというような笑えぬナンセンスさえ生んだことがあった
振分の髪を短み春草を髪にたくらむ妹をしぞ思う
と万葉の女性以来大和撫子が誇り続けて来た丈なす黒髪がすつぽりと切られてスズメの巣のようなパーマネントに変り、眉毛を落して三日月眉毛をかいたりするような風潮が流行したのも全くアメリカ映画のお陰であった、恋愛至上主義、刹那主義、享楽主義、尖端好奇、モダニズム、道徳軽視と人間獣化の恐るべき風潮が若い青年男女の間に燎原の火のように燃えさかったのもアメリカ映画のスクリーンがまき散らした影響であった、このアメリカ映画こそ言論機関と共にユダヤ金融資本が一手に掌握する独占事業なのである[中略]ユダヤはまた映画を三S政策の一翼として利用していることを忘れてはならない、三S政策とはセックス、スクリーン、スポーツによって国際主義を高揚し道徳を破壊し家族制度、社会秩序を攪乱しユダヤ思想への同化を誘導するものである、事変前ユダヤの三S政策は段々として日本に押寄せ青年男女を初め日本の交化層を腐蝕し、まさに日本精神は懐滅に瀕せんとした、アメリカ交化の仮面をかぶった映画は冒頭で述べたように我が純真な青年男女の気風に大きな悪影響を与え、浮華軽佻、侈奢逸楽の都会生活を謳歌せしめるようになった
神戸新聞付属図書館デジタルアーカイブー01.東京ー報知新聞ー1941年(昭和16年)ー37.アメリカの地底政府(1~6・完)報知新聞ー1941-06-23/1941-06-29
新聞記事文庫(kobe-u.ac.jp)
アクセス日時:2024年09月11日 21:30(日本時間)
非常に興味深い内容であるが、昭和16年度発行の報知新聞の記事にはっきり、「三S政策」と書かれている。
更に、ユダヤ云々の言葉も見受けられる。これはいったい何を意味するのであろうか?
この当時の報知新聞は、「東京五大新聞」の一角を占めた有力紙の一つである。質の低いタブロイド紙というわけではない。
他にも面白い記事が沢山存在する。
スポーツが流行り出した時期
スポーツというものが、広く一般の民衆に受け入れられるようになったのは、1896年に第1回アテネオリンピックがギリシアのアテネで開催された事が非常に大きいと思われる。
オリンピックが徐々に成長していき、やがて世界最大のスポーツイベントとなっていくのと同時に、国内でも様々なスポーツ団体や協会が発足、盛んになっていく。
代表的なスポーツ協会の設立年は以下の通り。
- 日本サッカー協会 1921年設立
- 日本テニス協会 1922年発足
- 日本ラグビーフットボール協会 1926年に設立
- 日本バレーボール協会 1927年に設立
- 日本バスケットボール協会 1930年に設立
殆どが、1920年~1930年の間である。
陸上競技や、野球に関しては、これよりも早い時期から盛んである。
スポーツが盛んになる前、日本では非常に武道が盛んであり、例えば、「大日本武徳会」(1895年(明治28年) – 1946年(昭和21年))などは、1942年(昭和17年)には、会員数224万人、資金量559万円(現代の価値で数十億程度か)で隆盛を極めた。
また、戦争翼賛団体としての性格が強く、設立当初から旧内務省との密接な結びつきを持っていた為、1946年にGHQから解散を命じられる。武徳会は消滅し、関わった人物1300名も公職追放された。
スクリーンとセックス
「アメリカの地底政府」の記事内にある、和製デイトリッヒ、和製ガルボ、和製ヘップバーンとは、誰を指すのであろうか?
マレーネ・ディートリヒ
マレーネ・ディートリヒ(1901年 – 1992年)は、ドイツ出身の女優、歌手。
1920年代のドイツ映画全盛期に花開き、1930年代からはハリウッド映画に出演、「モロッコ」でアカデミー主演女優賞にノミネートされた(「モロッコ」は日本語字幕映画の第1作である)。1932年の「上海特急」では先行して人気を得ていたスウェーデン出身のグレタ・ガルボと並ぶスターの座を確立する。
代表作は、「嘆きの天使」(1931年)、「モロッコ」(1931年)、「上海特急」(1932年)、「砂塵」(1941年)、カッコ内は日本上映開始年である。
グレタ・ガルボ
グレタ・ガルボ(1905年~1990年)は、スウェーデン生まれのハリウッド映画女優。ハリウッドのサイレント映画期ならびにトーキー映画初期の伝説的スターである。3度のアカデミー主演女優賞へのノミネート経験がある。
代表作は、「肉体と悪魔」(1929年)、「アンナ・クリスティ」(1931年)、「グランド・ホテル」(1933年)、「クリスチナ女王」(1934年)、「アンナ・カレニナ」(1936年)、「椿姫」(1937年)、カッコ内は日本上映開始年である。
キャサリン・ホートン・ヘプバーン
キャサリン・ホートン・ヘプバーン( 1907年-2003年)は、アメリカ合衆国の女優。
2020年時点で演技部門においてオスカーを4回受賞したただ一人の俳優。
代表作、「勝利の朝」(1934年)
「若草物語」(1934年)
「赤ちゃん教育」(1939年)
「素晴らしき休日」(1939年)カッコ内は日本上映開始年。
現代では、余程のマニアか専門家でないと知らないと思われるが、戦前若い日本人を非常に魅了したハリウッド女優が存在したのは間違いない。
まとめ
スポーツが流行り出したのは1920年代中頃から、代表的なハリウッド女優達が出演した映画の上映年は1930年頃からである。不思議と同時期である。
戦前の事をイメージすると、軍国主義とか戦争のイメージしか沸かないのが現代人である。
しかし、戦争に突っ走ったのは、1937年に起こった盧溝橋事件辺りからで、それ以前はハリウッド女優が出演した映画がどんどん上映されている事からわかる通り、親米であった。
3S政策は、1920年、1930年頃から既に、外国から世論工作として流入していたと見るべきであろう。
正確にどの時期に3S政策が行われたかについては、もちろん議論の余地がある。
戦前からの工作なのか、戦後GHQにやられたのか、更に、外国勢力による世論工作か、政府によるある種の愚民化政策なのか、単純な欧米化やグローバル化なのか、判断が難しい所ではある。
戦後の3S政策に関しても、全てをGHQや、日米合同委員会のせいにする訳では無いが、読売巨人軍を考えると非常にわかりやすい。
どうして一新聞社の持つ、一スポーツの一球団が、あそこまで全国区になり、他のスポーツや、他球団の選手を完全に凌駕するほどの存在になったか。単純に王や長嶋の活躍の話だけではないようだ。
読売巨人軍
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