最近、ウポポイ等含めやたらと取り上げられる「アイヌ民族」であるが、皆さんはシャクシャインの戦いというのを御存知であろうか。
江戸時代に松前藩の圧政に耐えかね一斉蜂起し、幕府軍と戦い、最後は毒殺された英雄シャクシャインはアイヌの誇りとされている。
だが、色々調べると、あれ?と思う所が多い。細かい歴史考証すると御覧頂く方にも大変なので、なるべくわかりやすく、シンプルにまとめてみた。
1.一般的に知られているシャクシャインの戦い
1-1 概要
江戸時代前期の1669年6月、シベチャリ(北海道日高管内新ひだか町静内)を本拠としたメナシクルの首長、シャクシャインが率いるアイヌ軍は松前藩へ蜂起を起こした。これを「シャクシャインの戦い(寛文蝦夷蜂起)」と呼ぶ。
蜂起は各地で発生し、砂金掘りや交易に訪れた商人や鷹待を攻撃、和人を殺傷した。
シャクシャインは松前を目指し進軍、7月末にはクンヌイ(山越郡長万部町)迄攻め進んだ。松前藩からの急報を受けた徳川幕府は、東北諸藩へ松前藩に対する援軍や鉄砲、兵糧の供与を命じた。
支援を受けた松前藩は、鉄砲を多数装備していた。これにより戦いはシャクシャイン側の劣勢となり、クンヌイからの敗退を余儀なくされる。
松前藩からの申し出でによる和議の席で、シャクシャインは毒殺された(1669年11月16日)。死因は一説に戦死であるともされている。
指導者を失ったアイヌは最終的に松前軍に降伏した。この戦いを経て、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至り、経済的、政治的支配は強化された。
1-2 蜂起の理由
徳川幕府以前までは、アイヌ民族は松前城下や津軽や南部方面まで舟を出し、自由に交易を行っていた。
しかし、幕藩体制以降、アイヌとの交易権は松前藩が独占する事になり、他の大名は禁止される事になった。更に、商場知行制に基づく交易体制へと移行した。これは松前藩士が蝦夷地各地の知行主になり、商場を設定して、直接アイヌ民族との交易する体制であった。
儲けを出す為に、アイヌに不利なレートで取引した事が蜂起に繋がったと思われる。
シブチャリ以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ民族集団メナシクルとシブチャリからシラオイにかけてのアイヌ民族集団であるシュムクルは、シブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いを長年続けていた。
アイヌ2部族の抗争、報復の最中に松前藩に対する武器貸与要請の使者に関する誤報から、松前藩への大規模な蜂起に発展した。
同時期の北海道の南西部では火山の大噴火が頻発しており、生活環境の悪化がサケの不漁に繋がり、シュムクルとメナシクルの抗争の一因になった可能性がある。
2.疑問点と事実
多くのブログ等では、具体的な数字を書いている物は少なく、ひたすらにシャクシャインの偉大さや、松前藩の圧政ぶり、卑怯さを記している物が多い為、疑問点を確認してみた。
アイヌにいた謎の人物、越後庄太夫
シャクシャインの娘婿に、越後庄太夫という謎に包まれた人物がいる。アイヌの参謀を担っており、出身は越後や出羽国、秋田藩士であるとか様々な資料がある。
職業は鷹侍、もしくは砂金堀り、との記載有り。武士というよりは、商人崩れ、もしくは山師の類では無いかと思われる。
この人物がシャクシャインをそそのかし、蜂起させた可能性は否めない。ほかにも、彼の仲間に、最上の助之丞(又は助之進)、尾張の市左衛門、庄内の作右衛門が居たという。皆、処刑もしくは火あぶりとされている。
3.実際の戦闘内容はこんな感じ
4.アイヌ民族の暮らし
松前藩は米が採れなかった為、アイヌとの優先的な取引を幕府が与えたわけで、五公五民のような事は出来なかった。鮭や米の取引レートが不適当であったのは間違いなく、アイヌの生活を圧迫したのは間違いないだろう。
シャクシャインの娘婿が日本人である事からも分かるように、他の部族でもかなりの混血が進んでおり、アイヌ側についた日本人、日本側についたアイヌ民族、様々存在した。
5.まとめ
一応、アイヌの方へ差別意識がある訳でも何でもない事を述べておく。純粋に戦いとしてみたかったのだ。
幕府が大軍勢を送ったという資料は無い。そもそも幕府が総大将に任命した松前泰広は、一介の旗本であり、大軍勢を指揮出来る能力も無かっただろう。しかも、反乱鎮圧の褒美として、500石を加増されているのみである。本当に大規模な反乱であれば、仙台の伊達藩(動員兵力は数万)辺りが動いたであろう。
松前藩は一万石の弱小大名であり、動員兵力は200~500程度である。鉄砲も常時装備出来るのは20丁程度。日本を震撼させるような大反乱でも無いし、東北諸藩はまともに出兵すらしていない。実際は一揆に毛が生えたようなレベルであったと思われる。
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