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女武将、女城主一覧:彼女達は本当に活躍したのか?実在性は?

歴史
Jhonas Cruz ReyesによるPixabayからの画像

女武将、女武者、女城主。

様々な呼び名があるが、実際の所、どのくらいが実在し、活躍したのだろうか。戦国時代に鎌倉も含めて一覧にしてみた。

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1.実在し、活躍した女武将

1-1 板額御前

『芳年武者无類 阪額女』月岡芳年作, 1885年(明治18年)
『ウィキペディア フリー百科事典日本語版』(http://ja.wikipedia.org

板額御前(はんがく ごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての女武将。「吾妻鏡」では「坂額」、他に「飯角」とも。日本史における数少ない女武将の一人。

巴御前とともに女傑の代名詞として「巴板額」(ともえ はんがく)と知られている。

生涯

越後の有力豪族、城資国の娘。兄弟は城資永、城長茂。治承・寿永の乱で平家方に組し家は没落。一族は潜伏を余儀なくされる。その後、城資永は病死。

鎌倉幕府成立後、越後において板額の甥に当たる城資盛(資永の子)が挙兵(建仁の乱)。これは、城長茂が京に置いて幕府打倒の兵を上げた事に呼応したもの。

長茂は京において討ち取られるが、資盛は要害の鳥坂城に拠って討伐軍を散々にてこずらせた。

板額は、反乱軍の一方の将として奮戦するが、両足に矢傷を負い捕虜となる。それとともに反乱軍も瓦解し、板額御前は鎌倉に贈られる。

鎌倉では第二代将軍、源頼家の面前に引き出されるが、全く臆せず、これに感銘を受けた宿将、浅利義遠が妻とし、甲斐国にて生涯を過ごす。一男一女をもうける。

考察

『吾妻鏡』において、

「女性の身たりと雖も、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。人挙て奇特を謂う。この合戦の日殊に兵略を施す。童形の如く上髪せしめ腹巻を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る。中たるの者死なずと云うこと莫し」

と書かれている事から、実際に一方の将として戦場に赴き、戦闘行為も行ったと思われる。

容姿に関して、『吾妻鏡』では美人の範疇に入ると表現されているが、後に浄瑠璃、歌舞伎の登場人物になった際に、なぜか醜女の蔑称ともなった。一説に身長6尺2寸(約188cm)といわれる(高過ぎ!?)。

平家方であった事、鎌倉幕府に反旗を翻した事、同時代の巴御前と比べられた事等から、割を食っていると言えそうだ。

1-2 立花誾千代

立花誾千代
ウィキペディア フリー百科事典日本語版』(http://ja.wikipedia.org

立花 誾千代(たちばな ぎんちよ、永禄12年8月13日(1569年9月23日) – 慶長7年10月17日(1602年11月30日))は、戦国時代の女性武将。

大友氏の宿将であった戸次鑑連(立花道雪)の一人娘。名前に含まれる「誾」の字は「慎み人の話を聞く」という意味があるらしい。

生涯

誾千代の生涯は、父のである立花道雪や、婿の立花宗茂、義父の高橋紹運の生涯を見ていくとわかりやすい。

  • 1575年、道雪は跡継ぎとなる息子がおらず、通常の男性当主の相続と同じ手順を踏み、娘を立花城の城督とした(誾千代は当時7歳)。戦国時代でも稀な例。
  • 1578年、大友氏は、耳川の合戦で島津氏に大敗。
  • 1581年、同じ大友氏に仕え武勇の誉れの高い、高橋紹運の長男である宗茂を道雪は養嗣子に迎え、その後、立花姓を名乗る。
  • 1586年、岩屋城の戦いで、高橋紹運が討死。
  • 1587年、宗茂は、九州を平定した豊臣秀吉より筑後柳川を拝領し直臣となる。大友氏は一国安堵されたが、後に改易。

その後宗茂は、朝鮮征伐や、関ケ原の戦い等、各地を転戦する事になる。

関ケ原の戦いでは、西軍側に与した為、改易されるが、1606年に徳川から1万石与えられて大名に復帰。だが、その頃には誾千代はこの世を去っていた(1602年に病死)。

考察

立花道雪の娘にして、婿が立花宗成義父が高橋紹運という、超絶武闘派の家柄に恵まれる(笑)。家督を継いだ事から考えても、父の薫陶をかなり受けて育ったのは間違いあるまい。

宗茂と誾千代の間には、不仲説が存在するが、真偽は不明。確かに子に恵まれていない上に、宗茂は戦で転戦続きであった為すれ違いは多かったかもしれない。

だが、宗茂に代わり城主として指揮を執った事は少なからずあった模様。城内の女中を訓練し、戦初めには一斉射撃を行い敵の心胆を奪う等といった記録が残されている。


1-3 妙印尼

妙印尼輝子 (myouinniteruko.com)

妙印尼(みょういんに、永正11年(1514年) – 文禄3年(1594年))は、上野国太田金山城城主・由良成繁の妻。

生涯

館林城主、赤井照光の娘とされる。由良成繁に嫁ぎ、息子の国繁、長尾顕長、娘(成田氏長正妻?)らを生む。天正6年(1577年)、夫の没後に出家。

天正12年(1584年)、当主不在の太田金山城を攻める北条氏に対抗し、家臣をまとめて71歳にして籠城戦を指揮する。後に北条氏によって太田金山城を接収されるが、その後も由良氏の為に尽力する。

6年後(1590年)の小田原征伐では、国繁が北条方の小田原城に篭城し、妙印尼は桐生城を守っていたが、嫡孫を後見して豊臣方へ降伏。

その後は、豊臣軍の松井田城後略に従う。由良家は、戦後その功により秀吉から常陸牛久城に5400石を与えられ、家名は存続した。文禄3年(1595年)、81歳で死去。

考察

71歳で籠城戦を指揮するという、パワフルおばあちゃん(笑)。おまけに81歳で大往生。

息子の国繁が北条方として小田原城に籠城しているのに、孫を連れて豊臣方に降るというえげつなさ。結果として、国繁は罪に問われず、常陸牛久城の城主になった。

孫にあたる甲斐姫の活躍(諸説あり)は、妙印尼を若くした姿の投影であるように思う。


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2.実在するが、活躍は諸説あり

2-1 巴御前

巴御前出陣図(東京国立博物館所蔵)
ウィキペディア フリー百科事典日本語版』(http://ja.wikipedia.org

巴御前(ともえごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期の信濃国の女性。源義仲に仕える女武者、妾。源平合戦では、源義仲の平氏討伐に従軍し、大力と強弓の女武者として描かれる。

巴御前は、当時の一次史料や「吾妻鏡」には、その存在は確認されていない。源義仲の愛妾として実在したと考えられるが、女武将としての活躍は、後世の脚色の域を出ない。

だが上述した「板学御前」の例もあり、当時の甲信越地方の武家の女性は、前線で通用する戦闘訓練を受けている例は存在する。従軍し戦場で活躍した可能性は否定出来ない。

考察

脚色とは思われるが、非常に華々しい活躍をしており、以後の武士や女性、能楽や浮世絵等の芸術分野で多くの注目を集めた。

板学御前が平氏側で従軍し活躍している事から、源氏側にもそれなりの女性を登場させたかったのかもしれない。源義仲とのロマンスもあり、物語を作りやすい。

2-2 小松姫

小松姫の肖像画(大英寺蔵)
ウィキペディア フリー百科事典日本語版』
http://ja.wikipedia.org

小松姫(こまつひめ、1573年-1620年)、徳川四天王本多忠勝の長女として生まれる。兄弟に、本多忠政、本多忠朝ほか。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉の命により、真田昌幸が徳川家康の与力になった際、小松姫と、昌幸の長男信之との婚姻が成立。

慶長5年(1600年)、秀吉の没後、石田三成が挙兵すると、夫の信之は家康率いる東軍側に付き、義父昌幸と弟信繁(幸村)は三成率いる西軍側に付いた。

敵方となった昌幸、信繁親子が、沼田城に立ち寄り城に入ろうとした際、留守を預かる小松姫が昌幸の計略を見抜き開門を拒み、女丈夫と謳われたとの逸話がある。

元和6年(1620年)春、病気にて死去。享年48歳。

考察

本田忠勝の娘にして、義父が真田昌幸義弟が真田信繁(幸村)という、超絶武闘派の家に恵まれたのは、まるで立花誾千代のようである。

直接戦闘や指揮経験は無いと思われるが、家康や2代将軍の秀忠に対して直に意見をする等、利発で才色兼備の女性だったと伝わる。

婚姻の際に、家康の養女として信之に嫁いだという説もある。

だが、大坂の陣で、義弟の信繁(幸村)が豊臣方として活躍した時は、夫婦共々肝を冷やしたかもしれない。

2-3 お田鶴の方(椿姫)

お田鶴の方(椿姫)(1550年-1568年) 今川配下の鵜殿長持の娘、飯尾連龍の妻。

夫の飯尾連龍は、徳川家康への内通を今川氏真に疑われて殺された。

連龍の死後、お田鶴の方が曳馬城を守っていたが、永禄11年(1568年)12月に徳川家康が城を攻めた。

お田鶴の方が防戦の指揮をとり、城を守っていたが落城。お田鶴の方は侍女18人と共に出て抵抗するも討死にした。

この時の様子に関しては諸説存在する。

考察

曳馬城落城時、お田鶴の方(椿姫)は18歳であり、城内の残存勢力を指揮して、最後華々しく討死にしたとなれば、当代一級の女武者となるが、にわかには信じ難い。

夫は今川に殺されており、徳川に降っても恥ではあるまい。この頃は、今川から徳川方への寝返りが相次いでおり、家康も、降伏に応じればそれなりの待遇を約束している。

今川義元は伯父であり、今川氏真は従兄弟に当たる為、今川一門としての忠誠を見せたのであろうか。

2-4 円久尼

円久尼(えんきゅうに、生年不詳-1615年)今泉永矩の娘。龍造寺四天王、百武賢兼の妻藤子(俗名)。

1584年、沖田畷の戦いで、龍造寺隆信、百武賢兼が討死にすると、仏門に入り、円久尼と名乗る。

武道の達人で博識でもあり、人格も当時衆人の敬愛する所であった。

1584年、大友軍の立花道雪と高橋紹運が居城である筑後蒲船津城を攻めると、自ら薙刀を携えて城兵を鼓舞して兵を指揮し、援軍が到着するまで持ちこたえて城を守りぬいたという逸話がある(北肥戦誌)。

考察

実在したのは事実だが、立花道雪高橋紹運相手に華々しい活躍となると、さすがに怪しくなってくる。

立花誾千代に対抗して創作されたか、夫の龍造寺四天王、百武賢兼が中々の人物の割にあまり知られていない事からも、脚色されたものと考える。だが、かなりの人物であったのは間違いない。

2-5 妙喜尼

妙喜尼(みょうきに、生没年不詳)遠山直景の娘。武蔵国日尾城主、諏訪部定勝の妻。

永禄11年(1568年)、日尾城に山県昌景率いる武田軍が攻めてきた。

だが定勝は前日に客人と酒を飲み、泥酔状態で寝込んでおり、妻の妙喜尼が甲冑を身につけて家臣を引き連れ出陣し、武田軍を撃退したと伝わる。

考察

実在したのは間違いないが、相手が山県昌景率いる武田軍となると・・・。だが、甲冑を着て諏訪部定勝のフリをして士気を鼓舞するという事はあるかもしれない。

相手が、格下の大した武将でなければ、撃退出来る可能性もある

情けない夫に代わって、相手を撃退するパターンは意外に多いのかもしれない。

2-6 市川局

市川局(いちかわのつぼね、? – 1585年)毛利元就の重臣で周防高嶺城番の市川経好の妻。

永禄12年(1569年)に大友宗麟の支援を受けた大内輝弘が豊後国より出陣し、高嶺城を包囲する(大内輝弘の乱)。

この時、経好は北九州において立花山城で大友氏と対陣中であり、城には妻の市川局と僅かな守備兵しかいなかった。

しかし市川局は城兵を指揮して大内軍を撃退し、見事に城を防衛した。この功績により市川局は毛利輝元より感状を受けている。

考察

市川経好は、吉川経世の嫡男であり、吉川一門である。高嶺城に残った守備兵は少数とはいえ、忠誠心高く、精鋭と思われる。

活躍の度合いは不明だが、後に毛利輝元より感状を受けている事から、功績は明確である。

3.実在かどうか疑わしい、活躍に関しても諸説あり

3-1 井伊直虎

井伊 直虎(いい なおとら、生没年不詳)は、井伊直盛の娘、戦国時代の遠江井伊谷領主。

井伊直盛には嫡子がおらず、直盛の従兄弟にあたる井伊直親を井伊直虎の婿養子として迎える予定だったが、直親の父親が、謀反の容疑で今川義元に殺され、直親も信濃へ逃亡。

行方不明になっていた直親は、別の女性と結婚していたが、1562年に、謀反を疑われて今川氏に殺される。

また直虎の父親の井伊直盛も2年前の桶狭間の戦いで討死しており、井伊家は御家断絶の危機に陥る。

その為、出家していた直虎は井伊家の当主になる。直親の一人息子である井伊直政を育て、1575年に徳川家康の家臣にさせる事に成功している。

1582年に直虎は亡くなるが、その後を継いだ井伊直政は、家康の家臣の中で四天王と呼ばれる程活躍し、家康の江戸幕府立ち上げに力を尽くした。

考察

NHK大河ドラマになったほどの人物だが、非実在説や、実は男であったとか、諸説あるようだ。

徳川四天王の井伊直政の養育者であった事や、徳川、今川、武田に翻弄されながらも、井伊家の為に忠誠を尽くす姿が人の心を打ったと思われる。

3-2 鶴姫

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鶴姫(つるひめ、生没年不詳)は、大山祇神社の大宮司の娘で、戦国時代の伊予にいたとされる。

周防の大内氏の軍勢に対し、幾たびか交戦してこれを撃退する。最期は戦死した恋人の越智安成の後を追って自殺したという(鶴姫伝説)。

鶴姫が使用した、日本に唯一現存する女性用の鎧、紺糸裾素懸威胴丸(こんいとすそすがけおどしどうまる)、が存在するとされる。

1966年に、大祝家の末裔である三島安精が、小説『海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』を発表してから知名度が上昇した。その実在性をめぐり疑問の声も上がっている。

考察

鎧に関しては、女性用であると主張する人物もいる一方、研究者の間では否定的な評価である。小説が出版される迄は、地元の人間も知らなかったらしい。

悲しいかな、創作の域を出ず、完全に現地の観光業のコンテンツに利用される状況となっている。だが、群雄割拠の戦国時代において、一つくらいこんな話が有っても良いのかもしれない。

3-3 甲斐姫

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甲斐姫(かいひめ、1572年- 没年不詳)は忍城城主成田氏長の長女、豊臣秀吉の側室の一人。外祖母に妙印尼(上述)がいる。

天正18年(1590年)の秀吉の小田原征伐の際に、父の氏長が小田原城詰めになった為、忍城を一族郎党と共に預かり、石田三成が城に侵攻した際には武勇を発揮し、城を死守したと伝わる。

1590年7月、北条側の総大将の北条氏直が豊臣側に降伏。

小田原城が引き渡された後も、忍城の成田勢は籠城を続けていたが、秀吉の命を受けた城主の氏長が使者を派遣し小田原城開城の知らせと忍城開城を指示。石田三成に忍城が明け渡される。

その後、甲斐姫の武勇と「東国無双の美人」と言われる美貌を聞きつけた秀吉の側室になる。秀吉の死後の詳細な動向は不明。

考察

この女性も非常に人気が高い女武将ではあるが、史実においては、豊臣秀吉の側室の一人で、死の間際まで務めていた事しかわかっておらず、後世の書物で脚色された感は否めない。

外祖母に妙印尼(上述)がいる為、甲斐姫の活躍(諸説あり)は、妙印尼を若くした姿の投影であると思われる。

秀吉が噂を聞きつけて側室にしているので、かなりの美貌の持ち主だったのは間違いない。

3-4 妙林尼

妙林尼(みょうりんに、生没年不詳)は、戦国時代の女性。父は林左京亮、一說に丹生小次郎正敏とされる。大友氏の家臣・吉岡鑑興の妻。

史料はほぼ残っていないが、大友氏の伝記である、「大友興廃記」『両豊記』にその名が、ルイス・フロイスの文書に妙林尼と推察される人物の記録が登場する。

夫の鎮興が耳川の戦いで戦死した為、出家し妙林尼と名乗った。

鶴崎城主は息子の統増だったが、統増は宗麟に従って臼杵城に籠城していた為、母の妙林尼が鶴崎城の指揮を執った。

城内は老兵と民衆しかいなかったが、妙林尼がよく兵を指揮、鼓舞した。

鶴崎城攻防戦で島津軍を追い返し、和睦後も追撃、奇襲を行い(寺司浜の戦い)散々に打ち破った。

秀吉は感心し、是非面会を求めたが、妙林尼はそれを断わったという。その後の消息は不明。

考察

史料はほぼ残っていないが、ルイスフロイスが書いた「日本史」には、好意的だった織田信長、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信に関して詳しい記述があり、ある程度の信憑性がある。

本当であれば、活躍の度合いはトップクラスになる。

4.まとめ

鎌倉時代までは、馬上で弓を射ちまくり、名乗りを上げての戦いが多かった為(諸説あり)、女武者が戦場を駆け巡る状況は少なからず存在したかもしれないが、戦国の御世になり、歩兵戦術が発展してくると、走れない、力が無いと厳しくなってくる。

だが、野戦なら厳しいとしても、籠城戦なら女性にも活路が有る。

武門の家柄の女性だと、兵法を習得していたり、付近の地理や、城郭にも詳しい可能性がある。更に鉄砲も撃てるとなれば、女城主の活躍の場はそれなりにあったと見るべきだろう。

だが、創作の域を出ず、完全に現地の観光業のコンテンツに利用される女武将も少なからず存在する。これからはインバウンドのネタにも出来る為、確実に増えるであろう。

織田信長に仕えた弥助に代表されるように、外国籍の侍も少なからず存在した事から、戦国時代は意外に多種多様な人間が活躍したのかもしれない。

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